概要
動物愛護の集まりで農学部の先生がこの本のことを言及していたのが印象に残っており,何年か遅れて読んだ。
題名通り,植物は知性のある生き物だということを説明している。人間からしてみれば,植物は動物とは異なり,物として扱いがちだ。この理由は,人間に比べて植物が非常に遅く動いているからだ。人間の見かけ上動いていないように見える。
しかし,実際には1日のサイクルで移動する。日の当たる方向に向きを変えるし,水のある方へ根を張り巡らせる。ゆっくりだが確実に動いている。そして,人間の五感に相当する機能も備えている。光を検知し,振動を検知,接触も検知し,根で土壌中の化学物質や水も検知する。化学受容体で匂いも検知できる。
植物と動物の進化の方向性が大きく違う。植物は定住することを選び,モジュール構造をとっている。これにより,動物に身体の一部を食べられても問題ない。そして,独立栄養生物だ。太陽の光と水,二酸化炭素があれば,光合成という奇跡により自分で栄養を生成できる。
人間は植物なしでは生きることはできない。その当たり前のことを再認識できた。植物のことを知れば知るほど,その驚きの機能に仕組みに興味を持った。
なお,動物愛護で度々問題となる植物は痛みを感じるかという問題については議論がなかった。
参考
p. 11: 人間が植物の生命を正しく認識できない理由
マンクーゾの主張によると、人間が植物の生命を正しく認識できない理由は、彼が十代のころに読んだあるSF小説に書かれていたという。その小説によると、高速 の次元に生きるエイリアンの種族が地球にやってきたが、人間の動きをまったく感知できな かったために、人間は「自力で動こうとしない物質である」という論理的な結論をくだした。そして容赦なく人間から搾取したのである。
これは目から鱗だった。植物は生きているし,動いてもいる。しかし,人間からするととても遅い。動かないものは物と誤認してしまう。相対的な問題だと感じた。
p.52: 植物と動物の進化の違い
定住の生活を選んだ植物は、地面、空気、太陽から、生きるために必要なものすべてを引き 出さなければならなかった。それに対して動物は、栄養をとるためにほかの動植物を食べなけ ればならず、運動に関わるさまざまな能力(走る、飛ぶ、泳ぐなど)を発達させていった。
動くことがなく、つねに捕食者に狙われている植物は、まずは外からの攻撃に対して、いわば「消極的抵抗」手段を発達させた。植物の体はモジュール構造になっていて、どのパーッも重要ではあるものの、どれも絶対に必要不可欠というわけではない。こうした身体構造は、動物と比べてとても優れている。とくに、地球上に存在する膨大な数の草食動物やその旺盛な食欲から逃れられないことを思えば、非常に有効なしくみである。モジュール構造の体のいちばんの利点は何か?それは、たとえ動物に食べられたとしても、植物にとってはそれほど大きな問題ではないということだ!いったいどこにそんな動物がいるだろうか?
植物と動物は進化の方向性が大きく違う。それにより,植物の身体はモジュール構造になっており,ある部分がなくなっても問題ない構造になっている。これは分散型の構成であり,理にかなっている。
p. 105: 植物は低周波の音が好み
じつは、植物の成長に影響を及ぼしているのは音楽のジャンルではなく、音楽を構成する音の周波数なのだ。ある一定の周波数、とくに低周波(一〇〇〜五〇〇ヘルツの音)が、種子の発芽、植物の成長、根の伸長にいい影響を与える。逆に高周波には成長を抑える効果がある。
植物の成長に音楽が効果があるというのを何かできいたことがある。100-500ヘルツの低周波の音が好影響というのは初耳だった。
p. 161: 第5章 はるかに優れた知性
生物学では、ほかのどの生物種よりも広い生活圏を獲得している種を「支配的」とみなす。
じつは、地球上のバイオマス(つまり、生物の総重量)のうち、多細胞生物の九九・七%(実際は九九・五〜九九・九%のあいだで変動し、その平均値が九九・七%ということ)は、人間ではなく植物が占めている。人類とすべての動物を合わせてもわずか○・三%にすぎない。
この事実からすれば、まちがいなく地球は「緑の星」だと定義できる。そこに議論の余地はない。地球は、植物が支配している生態系である。
当然のことながら,地球は植物で覆われている。植物が地球を支配していると見ても問題はない。当たり前のことだが,あまりこういうことを意識知ることはないので再確認できた。
p. 163: 脳がないなら知性はないのか?
「そもそも知性とは何か?」。知性は意味が広すぎて定義がむずかしい概念なので、当然のことながら、さまざまな定義がたくさん存在する(もっとも愉快な定義は「知性の定義は、定義を行なう研究者の数だけ存在する」だろう)。
そこで、まず最初に行なうべきは、私たちの問題にふさわしい定義を選択することだ。植物の知性を考えるために、かなり広い定義を使うことにしよう。それは、「知性は問題を解決する能力である」という定義だ。
知性の定義が書かれている。脳がなければ知性がないわけではない。「問題を解決する能力」と定義すれば,植物にも確かに知性はあるだろう。
p. 104: 植物に関する生命の尊厳
一九九八年にスイス連邦議会によって設立された「ヒト以外の種の遺伝子工学に関する連邦倫理委員会」は、この数十年に集められた科学的データを検討し、二〇〇八年末に「植物に関する生命の尊厳-植物自身の利益のための植物の倫理的考察」と題された報告書を提出した。
議論が分かれる問題もまだまだ数多くあり、わかっていないことも数多く残っている。それでも、スイスの生命倫理委員会は、倫理学者、分子生物学者、ナチュラリスト、生態学者をふくめ、満場一致で合意した。「植物を好き勝手に扱ってはならないし、植物を無差別に殺すことは倫理的に正当化できない」と。
念のためにはっきりさせておくと、植物の権利を認めることは、植物の利用を縮小したり制限したりすることを意味するわけではない。動物の尊厳を認めたからといって、動物を食物連鎖から除外したり、動物実験を禁止したりするわけではないのと同じだ。
植物の尊厳に関する話があった。スイスでは植物にも尊厳があると報告があったようだ。たしかに,生きているのだから存外に扱うのは控えるべきだろう。なかなか難しい問題だ。
結論
植物には知性があるという,あまり普段意識しないことを学べた。
参考にも書いた,速度が遅ければ物質と誤認するというのが,人間が植物を物質とみなすことの発端だというのは,眼から鱗だった。自分と違う存在,生命について考えが広がった。
教養を深めるのにはいい本だった。
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